武田信繁の墓 小諸
2006年 12月 17日
先日はご紹介したように、長野市川中島の典厩寺を訪ねてみました。
第4回川中島の戦いで勘助と共に討ち死にした、信玄の弟・副大将の武田典厩信繁を祭ったお寺です。 家臣の山寺左五右エ門はこの場所が激戦地で首級を収める場所が無かったため、身体のみを埋め首級を布に包んで地蔵峠を越え小諸に運びました。
小諸は勘助・馬場美濃守信房が縄張り・築城した武田の拠点だったからです。 また2年前までは信繁の嫡男信豊が城主でした。 山寺は信豊の家臣と相談しこの小諸市大久保の地にありあわせの陣鍋で首級を覆い葬ったと言われています。
赤い大久保橋を渡り布引方面3、4百m進んだ処です。
墓碑五輪の塔は1742年寛保の大洪水で流失してしまい、この墓碑は明治20年に建立したものだそうです。
長野市典厩寺の墓碑と良く似ています。 合わせたのでしょうか。
(12月9日の武田信繁をご覧下さい)
常に信玄を補佐してきた信繁の首級は、この中で今も静かに眼むっていることでしょう。
第4回川中島の戦いで勘助と共に討ち死にした、信玄の弟・副大将の武田典厩信繁を祭ったお寺です。 家臣の山寺左五右エ門はこの場所が激戦地で首級を収める場所が無かったため、身体のみを埋め首級を布に包んで地蔵峠を越え小諸に運びました。
小諸は勘助・馬場美濃守信房が縄張り・築城した武田の拠点だったからです。 また2年前までは信繁の嫡男信豊が城主でした。 山寺は信豊の家臣と相談しこの小諸市大久保の地にありあわせの陣鍋で首級を覆い葬ったと言われています。
赤い大久保橋を渡り布引方面3、4百m進んだ処です。
墓碑五輪の塔は1742年寛保の大洪水で流失してしまい、この墓碑は明治20年に建立したものだそうです。
長野市典厩寺の墓碑と良く似ています。 合わせたのでしょうか。
(12月9日の武田信繁をご覧下さい)
常に信玄を補佐してきた信繁の首級は、この中で今も静かに眼むっていることでしょう。
by majesta0024
| 2006-12-17 02:34
| 歴史